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水とタバコ

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かなしみの

さいきんはずっとずっとエレカシを聴いている。さいきんになりようやくまともに聴くようになったのだけど、あの人の声にはせつじつさと悲壮感があっていいですね。「悲しみの果て」がいちばんすきなのですけど、「俺たちの明日」「孤独な太陽」「風に吹かれて」「ガストロンジャー」なんかもよくってえんえんと、ほんとうにえんえんと聴いている。

一人でいてもそこそこ平気なようになってしまったことに一抹のさびしさをおぼえる。何だかんだ一人でも、色々やっていけるんだなぁと思って、もういい年なんだからそれは当り前なんだけど、なんか、若い頃にあった切迫感やせつじつさや執着が年々薄れていっているのを感じて、たまらない気持ちになる。元々こういう人間だったのかもしれないけど。それが年とともに表に出てきただけかもしれないけど。たしかに在ったものを失っていくのは、やはりかなしいしさびしい。

ところで5月3日のスパコミに行けることになったのでさいこうにハッピーで夜も眠れない。直前まですったもんだあったのですけど、まあ、まあ、結果オーライ…と、思いたい。
始発で行って終電で帰ります。


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不良とは、優しさの事ではないかしら。

私、いわゆる不良モノといわれる漫画がすきなんですけど、漫画でも小説でも映画でも音楽でも、思えばずっとずっとそういうものばかりをこのんで読んできたような気がするんですけど、何でだろうかとふと思えば、
思考が閉塞しているから、閉塞感に包まれた人たちがそこで生きて、息をして、途方もない長い時間をかけて脱却していく みたいなストーリーがすきで、たぶん、そんなようなものがすきで、それは私自身の希求&願望でもあって、きっと、だからそういうものに魅かれちゃうのかな。
という答えに考え至った。ああそうか、そうか~~~と、思った。昨夜の話。

不良、若さの特権。ばからしいと嘲笑われて、役立たずと罵られて、最低と人に言われて、要領よく演技できず、愛想笑いも作れない、そんなロクデナシが、なんだかたまらなくいとしいんだよな。ろくブルの波がまた来てくれてから、いわゆる“不良”と呼ばれる人たちの、二次元限定ですけど、そんなことばかり考えている。

私自身は不良とは無縁の生を生きてるから、足掻いてもがいて自分の今いる現実から脱け出そうと必死な彼らが、羨ましくていとしくて仕様がないんです。私もそうありたかったなと思うんです。
太宰治の『斜陽』にある一文が思いだされる。

不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。不良とは、優しさの事ではないかしら。

私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。

これを読んだのはずいぶん若い頃でしたけど、あれは電車の中でだったかしら、心を救われたような気分になったんでした。なぜ、なぜ、救われた気持ちになったのか、あの時はわからなかったけれど。

不良とは、優しさの事ではないかしら。

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外は春の雨が降って 僕は部屋で一人ぼっち

けさ書いた手記です。



昨日がきょうになって、きょうが昨日になって、そうこうしてるうちに月の半分が終わってまた新しい月が始まって、季節はどんどん流れていって気がつけばまた年末を迎えてる。きっと。早いなあとか言いながら、また一つ年をとることに今からもう怯えてる。咲いたと思った桜も昨日の強風と降り続く雨に、いつの間にか散らされて、早くも葉桜である。今年は近所に咲いた満開の桜を見に行けたので、それはよかった。
どこにでも行けるし何にでもなれると思っていた時期はいつだっただろう。私はたしかにそう思っていて、あの頃は、それを微かな希望にしていた。しかし時間が経って、今、私は何かになれているわけでもどこかに行けているわけでもなく、未だにここにいる。来年も再来年もたぶん。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、少なくとも今、私はたしかにここにいて、何者にもなれずに。


音楽を、PCでもiPodでもなくちゃんとコンポにセットしたCDアルバムから聴くとよい気分になる。アルバムという文化がこれから先もずっとずっと続けばいいよなと思う。アルバムという作品が私はどの作品媒体よりもすきだ。いつか自分の書いた諸々を紙にする時があれば、アルバムのようなかたちにしてみたい。ささやかな願望である。やろうと思えばいつだってやれるんだろうけど。
いつか、いつか、いつか、を繰り返してばかりいる。もうとっくに大人なのに、いつか、を繰り返して、気がつけばまた時間が経っているんでしょう。
いつか、いつか、いつか、会いましょう。その いつか って、いつよ。実現させる気はとうぜんあるのに、どうにも、身動きがとれない。言い訳である。
願望はある、たぶん、たくさん。叶えたい気持ちも当り前にある。会いたい人はいる、「いつか、会おうね」を出来ればもう繰り返したくはない。私は我が儘なので、いつかではなくほんとは今すぐ、今、早く早く早く死なない今のうちに。また年をとっちゃう前に、早く。

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いつか終わる話をしよう

twitterで、久しぶりにひと様の描いた海老原くんを拝んでひっくり返った。仕事の休憩室でニヤニヤが止まらず慌てて喫煙所に逃げ、改めてじっくりと拝見した。心臓はばくばくとして顔はニヤケっぱなしで、どうにも、堪らなくて、人がいないのをいいことに。
海老原くんとはろくでなしBLUESの海老原昌利くんのことで、私は彼にもうぞっこん惚れちゃって、若い頃に散々彼をいじめたり泣かせたり笑わせたり、したものだった。
ほんとうは過去形ではなく現在進行形で、いじめたり泣かせたり笑わせたり、したいのだけど、ここ2年くらいまるで指が動かず、かといってその間ろくブルで何かを描かれるかたはみられなかったので、一人でただただ彼を眺めては愉悦に浸り、それだけで満足してしまって、何もしないまま時間ばかりが過ぎ、私も年をとり、だのに彼はいつまでもいつまでも永遠に16歳のままで、相変わらずうつくしく、まっすぐで、ぶきようで、生きることに貪欲で、前田さんのことが大すきで、可愛くて、あまったれていて、海老原くんは、彼は、ああ!!海老原くん!!!!!!



さいきんは、むかしのことばかり思いだしている。これが年をとるということなのかしら。肉体は確実に衰えていっているというのに私は、未だに、可愛いあの子たちを妄想のなかでいじめたり泣かせたり笑わせたり、して、一人遊びを楽しんでいて、もはや生活の一部で、脳みその8割くらいはそのことでいっぱいで、もう大人なのに、いけない。でも治る気配をみせないので、もう治らないのでこの病気は。いったいいつまでこんなことをしているんでしょうか、いつまででも…?
死んだ時に今まで私の書いてきたたくさんの諸々を棺桶に入れて一緒に荼毘に付してほしい気持ちがあるから、今まで書いてきたものを印刷してホチキスで留めたやつでも作ろうかな~雑なつくりでいいから何かかたちにしたらいいのかな~などと思ったり、して、メメント・モリ

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