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水とタバコ

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まあ人間も動物なんですけどそれとこれとは別問題であるからして

す うじ

 ・

 さいきんはおもに睡眠欲と食欲と性欲しか感じないから、いよいよ動物に近づいているのかもしれない。昏々と眠っては陽が高くなる頃に起き、用意されている何かしらを食い、また浅く眠り、とろとろとした微睡みの中であの子をおもって自慰をする。吐精したあとのだるさに引きずられるようにして再び眠り、陽が暮れる頃に起きだして、すこしだけ外を歩いてみたりする。路地裏の猫たちに餌をやって、頭を撫でて、帰りしな欲しいものなど何もないくせにコンビニに寄り店内を一周して、結局何も買わずに家に帰る(そもそも、金を持ってきていないのだ)。
 だから俺は動物なの。というような話を弟にすると、彼は「へえ!」と感嘆の声を上げた。意味がきちんと伝わっているのかはわからないけれど、「へーそっかーそうなんだー!」なんて言って純粋極まりないきらきらとした瞳を向けられると自分の発することばなどつくづくどうでもよいものにしか思えなくて、俺は黙って弟の手を握る。本能で生きる動物だから、今はただただこの子とセックスがしたかった。弟は優しいから拒んだりしない、弟は優しいから自分から唇を重ねてきてくれる、弟は優しいから俺の耳もとで甘い息をついて笑う。弟は優しいから抱きしめるとあたたかい。泣きたくなる。
「本能に任せて交尾するって、最低でしかないね」
 でも俺は動物だから仕方がないの、ごめんね。
 ぶつぶつと呟く俺の頭を撫でさすりながら、弟はしばらく黙った。すきだよ十四松と唇に載せてみた。俺はこんなにもただの動物だけど、おまえのことがすきだよ十四松。
 からだを離して弟は俺の顔を見据える。斜視気味のまっ黒いまなこ。それから俺の鼻の頭に自分の鼻の頭をくっつけた。先端のとんがりは硬さと同時に皮膚のあたたかさとやわらかさを感じさせる。頬を擦り寄せ、額を額で撫で上げる。猫同士が親愛をつたえる動きにそれはよく似ていた。
「俺もすき」
 甘ったるい声で弟はいう。そうしてすこし声を低めて、
「そんで俺もにいさんとおんなし動物だよ」
 だから安心していいのだという。同族なのだと彼はいう。
「俺もただの動物だから」


 ・
(一松と十四松)

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ごめんね数字松

殴り書き一と十四。
たぶんおなじようなの100000万個くらいある。
※ほんとは140字で書け的なお題で書きたかったけど140字でなんか書けなかったやつ。




 反射的にぎゅっと目を瞑る。唇にかさついた皮膚がふれる。十四松の唇だと認識してから一瞬遅れて、キスをされているのだと理解する。彼の唇は年中荒れていて、見るだに痛々しい。目を瞑ったまま舌で唇を舐めた。血の味がした。綴じていた目を開けると斜視ぎみの瞳がまっすぐにこちらを見ていて、「にーさん顔まっか!」と笑った。おなじ顔をした弟の、無邪気な表情と言葉に、幸福よりも先に絶望を感じた。あ、終わった、と一松は思った。もうこれで終わった。ただでさえお先真っ暗な人生、もうどうにでもなってくれたって構わなかったのだけれど、心のどこかで、この一線だけはけっして越えたくないと思っていたことに驚く。
「……何、してんの」
 十四松は「んー?」と首を傾げて、
「ちゅー?」
「なんで」
「えー?」
 したかったから? あくまで無垢にそう言われる。一松が無言でいると次第に十四松の顔から笑みが消え、やがて狼狽の色が顎から額にかけて波のように拡がった。
「あ、ご、ごめんっ」
 動揺を苦笑で覆い隠しながら後退していく。
「ごめんにーさん! 嘘! じょうだん!」
 びっくりした?! ごめんね! 笑って、でろでろに延びたパーカーの袖を振り回して、ついさっきの事実をなかったことにしようとする十四松は卑怯だと思った。お前それはねぇだろ、と一松の心中に憎しみが湧いた。こちとらもう人生終わったと覚悟してんだ、じょうだんになんか、するんじゃねぇよ。
「いだっ!」
 十四松の胸倉を掴んで茶の間の畳に押し倒し、乱暴に唇を塞ぐ。乾燥して荒れた唇からはやはり血の味がして、舌で舐めるとざらついた感触がつたう。気持ちのよいものではないと思ったけれど、こいつは唇まであったかいんだなあとそれだけは発見だった。
「一松にいさん、」
「十四松顔まっか」
 うっそ! と両手で顔を覆う。その様がいじらしくて可愛くて、ひどく憎らしかった。ぎゅうと抱きしめるとまるで何の抵抗もなく十四松も一松のからだに抱きついて、にいさんごめんねと耳もとで囁かれる。
「なにが」
「さっきの嘘」
「さっきの、って、どのさっき」
 キスをしてきたこと? それともそのあとの言葉?
「嘘ってゆったの、嘘」
 あ、終わった、と、一松は泣きたい気持ちで思った。
 俺の人生ここで終わり、やっぱりここが終着点。こんな狭い実家の茶の間が、生まれてから20余年過ごしたこの場所が、俺の終着点。
「……かなしい?」
 くぐもった声で問われて、一松は逡巡する。かなしい、と答えたら、この子をいたずらに泣かせてしまうだけなのはわかっていた。すなおにかなしいと言葉にして、弟をかなしませたくはないと思った。
「かなしく、は、ない」
「ほんと!」
「でも、ちょっと泣きたい」
「なんで?!」
 わかんないけど、泣きたいから慰めて。頭を十四松の頬にすり寄せると、十四松は「はいはいはーい!」と快活に返事をして――ご丁寧に挙手までして――一松の頭をぽんぽんと撫でた。
「かなしくはないけど泣きたいの、おっかしいねー!」
 泣いてもいいよ、にいさん! などと元気に言われても、泣けるはずもなく、一松は黙って十四松の黄色いパーカーの裾を握りしめた。



(一松と十四松)

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あたためてやるよ(影菅・大人)

 大人になるということ、大人になったということ。


×

 つまさきが冷たくて、菅原はベッドに放っていたブランケットを自らの足もとに掛けた。ラグに直接胡坐をかいて、ひどく熱いコーヒーを飲んでいる。点けっぱなしのテレビではかれこれ二時間、刑事ドラマが流れていて、主役らしき女刑事がいよいよ犯人に繋がる何かしらの証拠を発見したところだった。事件の内容や経緯などすこしも興味もないし頭に入ってなどいないのだけれど。
 浴室のドアの開く音がして、影山が風呂から上がったことを知る。キッチンで水を飲む気配がする。インスタントコーヒーをちいさなスプンにふた匙、カップに入れて、ポットから湯を注ぐ音、冷蔵庫から牛乳を取り出し、レンジで温める音が澱みなくつづく。カフェオレを作っているのだ。彼は苦いコーヒーが飲めない。もう大人なのに、と菅原はおかしくなる。
 ほどなくしてリビングに現れた影山は、自分用の紺色のマグカップを片手に持って、当り前のように菅原の隣に腰を下ろす。まだほかほかとする肌からボディソープとシャンプーのよい香りが漂い、暖房を入れていないへやで彼だけがひどく温かだった。
「犯人、わかったっぽい」
 彼のほうは見ずに呟くと、カフェオレを一口飲んだ影山は一瞬、目を眇めて、菅原を見、テレビに視線を映し、それからまた菅原を見やって、「なんの事件の話すか」と、そもそもの原点的なことを言った。
「わかんね。ちゃんと観てないから」
 心底どうでもよくて、リモコンを手に取る。てきとうにザッピングをして、けっきょく、国営放送の21時台のニュース番組に落ち着いた。何かを観たいわけでもないけれど、何もないのはすこし味気ない時、菅原はCMを挟まない国営放送を点ける。最低限の音楽と全国民から平坦な評価を受けられるように抑制されたアナウンサの声音と表情が、思考にも視界にも煩わしくはないのだった。
「寒くないすか」
 またひとくち、カフェオレを咽に落としたあと、影山は言った。「暖房、入れないんすか」。
「んー……、いや、いい。影山、寒い?」
「俺は、べつに」
 菅原さんが寒そうです、と、菅原の足もとを覆うブランケットに目を落として、影山はくちにする。
「これあったけーよ」
 そう言って影山の膝にもブランケットを半分掛け、菅原は影山にからだを寄せる。コーヒーとカフェオレとシャンプーとボディソープのそれぞれの香りが、ほどよく混ざって菅原の鼻をくすぐった。
「影山は体温高いからなあ」
 肩に頭を預けて笑うと、影山は唇を尖らせる。むかしからの、照れた時の彼の癖だ。ほんのすこしだけ眉を動かし、もの言いたげに視線を泳がせ、それで、けっきょくは何も言わない。その仕草を目にするたび菅原はたまらなくなった。もう大人なのに、いつまでもあの頃の面影を漂わせつづけている恋人が可愛くてせつなくて、苦しくなる。
 影山も、自分も、もう大人なのだった。すくなくとも互いに働いていて、一人でも生きていかれる程度には。
 それでも、あの頃からずっと、今もまだ、こうして二人でいっしょにいる。
 なんかをしてやりたいなあ、と、菅原は漠然と考える。先輩と後輩だった頃みたいに、この子にたいして何かをしてやりたかった。指導をしたり、肉まんを奢ったり、仲間との仲をとりもったりといった何かをしてやりたくて、けれどそれがすでに自分の役目ではないこともまた知っていた。自分がそんなことをしなくても、影山はもう一人で肉まんを買えるし、チームメイトとも上手くやれている。
 影山の、まだ湿っている前髪に触れると、彼はくすぐったそうに目を細めた。
「おまえももうすっかり大人だな」
 へらっと笑うと、自分が思っていたよりもその事実に疵ついていることに気がつき、すくなからずショックを受ける。
「菅原さんも、大人じゃないすか」
「まーな。煙草も喫えるし酒も飲めるし」
 会社に行って仕事して、上司に怒られて理不尽な残業して終電で帰ってくるくらいには。
「……ああ、なんか、」
 息を吐くように言葉をこぼす。影山の瑠璃色の瞳が薄闇の中でにわかに光る。
「おまえに色々してやりたいけど、できることがなにもないな」
 大人なのに、大人になったのに、大人になったからこそできなくなることがあるだなんて、あの頃はきっと考えていなかった。大人になれば大概のことは叶うと思いこんでいた当時の自分は、やはり紛れもなく子どもだったのだ。
「そんなことはないじゃないすか」
 単純な影山は、菅原の言葉をただそのままに受けとめる。ばかだなあ、と、菅原は思う。けれど、ばかなところは今さらすぎるのでくちにはしない。
「……感傷」
 ほんとうに、ただのばかげた感傷だ。浅く笑うと胸が痛んだ。この痛みをこいつは知らないんだよなあと思うと、憎たらしさで首でも絞めたくなってしまう。
 菅原はすっかり冷めたコーヒーを飲み干すと、ベッドからタオルケットを引っ張って影山を頭から包みこんだ。アイボリーの布に包まれる透き間から、驚いて見開かれた影山の目が見えたけれど、構わなかった。
「わ、ちょ、っと、すがわらさん、」
 カフェオレが僅かにこぼれて一点の染みをこしらえる。うわ洗濯めんどくさい、けどいいや、もう。
 タオルケットの中にからだを潜り込ませ、影山のからだを抱きしめる。風呂上がりの温かさはもうずいぶんと消えていた。
「からだ冷えてる」
 鍛えているからだが、たやすく風邪を引くわけもないことは知っていた。それにこいつは、ほんとうにばかだし。
「菅原さんのが、つめたいすよ」
 菅原の指先に触れて影山は拗ねたようにいう。それを無視して、タオルケットの端と端を合わせテントのように外界から遮断する。
「あたためてやるよ」
 薄暗がりの中、くぐもった声で菅原は言った。そこに微かに笑みが滲んだ。
「できることがないから、せめて」



 (BGM あたためてやるよ / 阿部芙蓉美)

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終わりを迎えるためのへや

リハビリと習作。影菅。




 俺をすきだといって泣いた影山の頭を引き寄せて、落ちてきた額を肩に受けとめた。まだ硬い蕾をいくつもつけた桜の枝が彼の頭のむこうに見えた。それを抱くような空の冷静な青も。
 手を伸ばしたのは無意識の行動だったけれど、無意識にそうしたことをしてしまうくらいには影山のことばには、涙には、切実さがあって、つらかった。俺がすこしも、この子とおなじ気持ちを持ってはいないことを、この子は疾うに知っていて、それを知りながらすきだということばを引き出させる俺はサイテーかもと、ざらっとした罪悪感が胸に湧く。同時にわずかな優越感と、彼に好かれている、恋されていることへの快感も、あった。
「菅原さんが、そうじゃないって、知ってます」
 俺の肩に額を押しつけたままくぐもった声で、影山は言った。「でも、俺はすきで、そういった意味で、すきなんです」。
 そういった意味で、って、どういった意味で。意地悪な質問を飲みこんで、さらに意地悪な言い方を唇にのせる。
「それはさ、たとえばさ。デートしたいとか、手を繋ぎたいとか、キスしたりえっちなことしたいとか、そういう意味で?」
 そういったことを影山が望んでいるのだろうということは、彼が沈黙してしまったことで察した。当り前なことだ。誰だって誰かに恋したら、その人とデートしたり、手を繋いだり、キスしたりえっちなことしたいと考える。俺もそうだったし、恋愛なんてしたこともない様子の影山もまたおなじなはずだ。俺たちはおなじ人間で、おなじ男で、性欲だっておなじようにある。
 思わずくふふ、と笑うと、耳のふちを赤く染めた影山が俺の瞳をみつめた。
「……あのなんか、すんません」
 そうして俺から離れようとしたので、阻止するように、ごめんちがうと俺は笑いながら、彼の後頭部を手のひらで撫でた。
「なんかちょっと、安心して」
「あんしん?」
「影山も人の子なぁ」
 腑に落ちない、といった表情をされる。それが可愛くて背中に腕を廻し抱きしめる。硬直した影山のからだの薄さ、学ラン越しの骨の感触。
「ほんとは、」
 しばらく押し黙ったあと影山は言った。
「ほんとは言うつもりなんかなくて。でも言わないでいるのもしんどくて。言っても言わなくてもしんどいなら、言ったほうがいいと思って」
 言い訳のようなことばの羅列が、心地好いと思った。俺のためにことばを選び、俺のためにことばを紡ぐこの少年を愛しいと、心から心から思った。
「困らせて、すみません」
 この子のことを好きになれたならよかった。目の前の誠実で頭の弱いこの子に恋ができたならよかった。
 背中に廻していた腕をほどき、足を引いて、からだを離す。真っすぐにこちらをみつめる影山の、赤く充血した目。
「ありがとう」

 すこしだけ涙が出た。



 布団にくるまっていると汗が滲んで、それが鬱陶しくて起き上がり、午前0時だというのにどういうわけかホットケーキを焼いている。ホットケーキミックスと牛乳と卵があったから、唐突に食べたくなって焼いている。日づけが変わったばかりで、春のはじまりというのにやけに蒸し暑く、換気扇を廻した。古い換気扇のガコンッ、という音が深夜の台所に響き、起きるかなと思った途端気配をかんじた。台所と居間を遮るドアがひらいて、影山の細長い影が夜闇にぼんやりと浮んだ。
「なに、してんすか」
 寝起きの掠れた声で彼はいう。「ホットケーキ作ってる」と俺は律儀にへんじをする。
「……夜中っすけど」
「うん。知ってる」
 影山は不思議そうな顔をしたものの、けれど無言で冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲みながら、ちいさなダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
「なんか、腹減ってさ。あと甘いものむしょうに食いたくて」
「俺も腹、減りました」
「おー。いっしょ食うべ。あ、蜂蜜とバターあったっけか」
「ちょっとまえに買ってましたよね」
 影山は炊飯器やらトースターやらの載った棚を開けて、ごそごそと探ったのち蜂蜜の壜を取り出す。
「男二人の生活に、なんでそんなもんがあるんだろーか」
 自分で買ったくせに、改めて思うと笑ってしまう。ホットケーキミックスも、蜂蜜もバターも、滅多に使わない。唐突に思いたって焼いてみたのは何か月前だったか、記憶を遡ろうとして思いだせず、やめた。
 深夜の台所にホットケーキの焼く音と、焼ける匂いが満ちてゆく。甘ったるく、すでに胃もたれしそうなほどだった。
「孝支さん、ジャムもありましたよ」
 冷蔵庫の奥に眠っていた苺ジャムを取り出した影山は、俺の背後に立って俺の手もとを見守っている。おお、豪勢な夜食だなーと笑うと、「俺、なんか、幸せです」と影山は言った。
 ぽつりと呟くように、彼は言った。



 女同士のセックスは、どちらがどちら、というきめごとみたいのはないらしいと何かで読んだ。ネットだったかくだらない雑誌の片隅だったか、そんなことはどうでもよいけれど、要するにつっこむモノがないから、そうなのだそうだ。男同士は、つっこむモノがふたつあるから、どちらがどちら、というきめごとが割にはっきりとしている。抱くのと抱かれるのと、一度決まってしまえば、流れるようにその関係はつづく。俺は影山に抱かれて、影山は俺を抱く。一度、最初に、そうなってしまったから、その関係はだから今も続いている。
「しょうじきなところだけどさ、」
 春の夜の、まだ夏掛けではない布団の中で、汗にまみれて、ブランケットは、いつの間にか床に落ちている。はい、と、セックスの時、特に終わった後はやけに神妙な色を帯びる声で、今夜もやはりその声音で、影山がすぐ隣でへんじをする。
「俺も、たまにはお前を抱きたいと思うよ」
 それに深い意味はなかった。深い意味はなかったけれど、影山の顔が強張ったので、深い意味があると捉えられたようだった。その頬を両手ではさんで「そんなむつかしい顔すんな」と、笑う。
「べつにお前に抱かれるのが厭とかじゃないしさ、どっちがどっちでもいいし。でも、俺も男だから」
 男だから、すきな人間を抱きたいと思う。
「……俺も、男っす」
 俺に頬を挟まれたまま、唇を尖らせて、影山が反駁するように言う。
「知ってるけど」
「俺も、菅原さんが男だって、知ってます」
「んじゃ、俺の気持ちもわかる?」
 影山はすこし黙ったあと、やはり神妙な面持ちで静かに頷いた。
 彼の顔から手を離し、天井を見上げて伸びをする。かすかに雨の音が、へやに漂っている。夕がたから降り始めた雨は、あしたの朝までつづくらしい。
「孝支さんは俺のこと、抱きたいんすね」
「んー……まあ、そうだなぁ」
 落ちてしまいそうな瞼を持ち上げて、天井と、影山の顔とを交互に見やる。うすやみの中で彼の輪郭はぼんやりと滲んで、けれど表情はよく読み取れる。
「影山は俺に抱かれたい?」
 困惑と動揺を隠せない影山を追いつめるように、くちにする。いじめているようですこし気が引けるけれど、彼を断崖絶壁にじりじりと後退させてゆくのは思いのほかたのしいものだった。
 片肘でからだを支え上体を起こし、壁に背中を貼りつけそうなくらい身を引いた影山を下から見上げて俺はいう。
「抱いてさしあげましょうか? たまには」


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幸せにはなれない

しりきれる



 息を吸って、吐いて、それだけで肺の中が凍りつきそうな、人を殺せそうな寒さがだいぶとやわらいだ、2月の夜はとろりとしていて、街全体が雨の湿度に護られているような優しさがあった。死ぬのなら2月がよい。と、私は幼い頃から漠然と考えていて、それはもう大人になってしまった今も変わらずに想うことだった。死ぬのなら2月がいいなと私が言うと、隣でステアリングを握るあの人は抑揚のない声で「へえ」と言った。
「2月。って、よく人が死ぬし」
 実際、私の看ていた患者が2人、今月に入ってから立て続けに亡くなった。
「季節の変わりめ。だからね」
 そうそれから11月、4月、6月、8月とかね。だいたいその頃にみんな死ぬね。運転席で前方を見つめながらあの人は言って、声は、すこし乾いている。
 硝子窓に貼りついた水滴を眺めて、私はあの人の声を脳内で反芻させる。近くにいるのに私たちの距離はあまりにも遠く、それは私も、あちらも、互いにけっして越せないように徹底したライン引きを行っているからだ。週に一度か二度、仕事以外で人間と関わりを持ちたがらない私が、唯一、何の責任も重圧も感じずにコミュニケーションを取れる存在がこの人だった。私には友達も恋人もいない。
 11月、4月、6月、8月。そして2月。人が死ぬ季節。人が死にやすい季節。それは医学的に根拠があって、季節の変わりめ、気温や湿度の落差が激しい時期であるからに他ならない。
「2月に死ねたらきれいに死ねそう」
 赤信号が近づきつつあった。ゆったりとしたリズムでのブレイキングで、私のからだにGがかかる。この瞬間が心地好くて、すきだ。と、おもう。
「2月は、清潔だし」
 どういうわけか私の2月のイメイジは、私の中でひどく美化されていた。どうせいつか死ぬのなら2月。白く清潔な2月。死因がどうであれ『死亡日・2月×日』とか、記載されることに、私は今、とらわれている。
「2月は、誕生日前だし」
 としをとってしまう、ひと月前だった。たったひと月の僅かな猶予に、すっと消えるように死ねたららくなような気がした。ではどうやって死のうかなどと考えることはなく、ただすっと消えるように、立春をむかえてやわらいだ寒さのように、あーそういえばあの人死んだんだっけって言われるような、そういう最期を私はいつまでもいつまでも望んでいて、それはできることなら、隣のこの人より早いほうが、よかった。隣のこの人より早く、そして清潔な2月に。
 ――甘ったれボケカス!
 わかっている、知っている、自分の甘さ弱さくらい。けれどそうでも思わなければ、生きていけなかった。どうせいつか死ぬ。と、そう確かなことを思っていなければ、私には生きることは、あまりにも難解すぎた。ただ息を吸って、吐いて、それだけでよいはずのことなのに、ただ息を吸って吐いて吸って吐いて、して、それだけで充分なはずなのに。
 Gがかかる。青信号が夜の中にぼんやり浮ぶ。隣には感情の読めない横顔ひとつ。



 すこやかに清潔に生きてゆける人がうらやましかったり、死ぬことなんて考えもせず生きてゆける人が憎らしかったり、ふつーにごはんを食べられてふつーに生活してゆける人がたまらなかったり、隣人に迷惑をかけているだけの存在である自分、みたいのを意識することもなく。隣の芝生はいつも青い。



(おもえば11月にも似たようなことを書いていた)

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