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水とタバコ

終わりを迎えるためのへや

リハビリと習作。影菅。




 俺をすきだといって泣いた影山の頭を引き寄せて、落ちてきた額を肩に受けとめた。まだ硬い蕾をいくつもつけた桜の枝が彼の頭のむこうに見えた。それを抱くような空の冷静な青も。
 手を伸ばしたのは無意識の行動だったけれど、無意識にそうしたことをしてしまうくらいには影山のことばには、涙には、切実さがあって、つらかった。俺がすこしも、この子とおなじ気持ちを持ってはいないことを、この子は疾うに知っていて、それを知りながらすきだということばを引き出させる俺はサイテーかもと、ざらっとした罪悪感が胸に湧く。同時にわずかな優越感と、彼に好かれている、恋されていることへの快感も、あった。
「菅原さんが、そうじゃないって、知ってます」
 俺の肩に額を押しつけたままくぐもった声で、影山は言った。「でも、俺はすきで、そういった意味で、すきなんです」。
 そういった意味で、って、どういった意味で。意地悪な質問を飲みこんで、さらに意地悪な言い方を唇にのせる。
「それはさ、たとえばさ。デートしたいとか、手を繋ぎたいとか、キスしたりえっちなことしたいとか、そういう意味で?」
 そういったことを影山が望んでいるのだろうということは、彼が沈黙してしまったことで察した。当り前なことだ。誰だって誰かに恋したら、その人とデートしたり、手を繋いだり、キスしたりえっちなことしたいと考える。俺もそうだったし、恋愛なんてしたこともない様子の影山もまたおなじなはずだ。俺たちはおなじ人間で、おなじ男で、性欲だっておなじようにある。
 思わずくふふ、と笑うと、耳のふちを赤く染めた影山が俺の瞳をみつめた。
「……あのなんか、すんません」
 そうして俺から離れようとしたので、阻止するように、ごめんちがうと俺は笑いながら、彼の後頭部を手のひらで撫でた。
「なんかちょっと、安心して」
「あんしん?」
「影山も人の子なぁ」
 腑に落ちない、といった表情をされる。それが可愛くて背中に腕を廻し抱きしめる。硬直した影山のからだの薄さ、学ラン越しの骨の感触。
「ほんとは、」
 しばらく押し黙ったあと影山は言った。
「ほんとは言うつもりなんかなくて。でも言わないでいるのもしんどくて。言っても言わなくてもしんどいなら、言ったほうがいいと思って」
 言い訳のようなことばの羅列が、心地好いと思った。俺のためにことばを選び、俺のためにことばを紡ぐこの少年を愛しいと、心から心から思った。
「困らせて、すみません」
 この子のことを好きになれたならよかった。目の前の誠実で頭の弱いこの子に恋ができたならよかった。
 背中に廻していた腕をほどき、足を引いて、からだを離す。真っすぐにこちらをみつめる影山の、赤く充血した目。
「ありがとう」

 すこしだけ涙が出た。



 布団にくるまっていると汗が滲んで、それが鬱陶しくて起き上がり、午前0時だというのにどういうわけかホットケーキを焼いている。ホットケーキミックスと牛乳と卵があったから、唐突に食べたくなって焼いている。日づけが変わったばかりで、春のはじまりというのにやけに蒸し暑く、換気扇を廻した。古い換気扇のガコンッ、という音が深夜の台所に響き、起きるかなと思った途端気配をかんじた。台所と居間を遮るドアがひらいて、影山の細長い影が夜闇にぼんやりと浮んだ。
「なに、してんすか」
 寝起きの掠れた声で彼はいう。「ホットケーキ作ってる」と俺は律儀にへんじをする。
「……夜中っすけど」
「うん。知ってる」
 影山は不思議そうな顔をしたものの、けれど無言で冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲みながら、ちいさなダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
「なんか、腹減ってさ。あと甘いものむしょうに食いたくて」
「俺も腹、減りました」
「おー。いっしょ食うべ。あ、蜂蜜とバターあったっけか」
「ちょっとまえに買ってましたよね」
 影山は炊飯器やらトースターやらの載った棚を開けて、ごそごそと探ったのち蜂蜜の壜を取り出す。
「男二人の生活に、なんでそんなもんがあるんだろーか」
 自分で買ったくせに、改めて思うと笑ってしまう。ホットケーキミックスも、蜂蜜もバターも、滅多に使わない。唐突に思いたって焼いてみたのは何か月前だったか、記憶を遡ろうとして思いだせず、やめた。
 深夜の台所にホットケーキの焼く音と、焼ける匂いが満ちてゆく。甘ったるく、すでに胃もたれしそうなほどだった。
「孝支さん、ジャムもありましたよ」
 冷蔵庫の奥に眠っていた苺ジャムを取り出した影山は、俺の背後に立って俺の手もとを見守っている。おお、豪勢な夜食だなーと笑うと、「俺、なんか、幸せです」と影山は言った。
 ぽつりと呟くように、彼は言った。



 女同士のセックスは、どちらがどちら、というきめごとみたいのはないらしいと何かで読んだ。ネットだったかくだらない雑誌の片隅だったか、そんなことはどうでもよいけれど、要するにつっこむモノがないから、そうなのだそうだ。男同士は、つっこむモノがふたつあるから、どちらがどちら、というきめごとが割にはっきりとしている。抱くのと抱かれるのと、一度決まってしまえば、流れるようにその関係はつづく。俺は影山に抱かれて、影山は俺を抱く。一度、最初に、そうなってしまったから、その関係はだから今も続いている。
「しょうじきなところだけどさ、」
 春の夜の、まだ夏掛けではない布団の中で、汗にまみれて、ブランケットは、いつの間にか床に落ちている。はい、と、セックスの時、特に終わった後はやけに神妙な色を帯びる声で、今夜もやはりその声音で、影山がすぐ隣でへんじをする。
「俺も、たまにはお前を抱きたいと思うよ」
 それに深い意味はなかった。深い意味はなかったけれど、影山の顔が強張ったので、深い意味があると捉えられたようだった。その頬を両手ではさんで「そんなむつかしい顔すんな」と、笑う。
「べつにお前に抱かれるのが厭とかじゃないしさ、どっちがどっちでもいいし。でも、俺も男だから」
 男だから、すきな人間を抱きたいと思う。
「……俺も、男っす」
 俺に頬を挟まれたまま、唇を尖らせて、影山が反駁するように言う。
「知ってるけど」
「俺も、菅原さんが男だって、知ってます」
「んじゃ、俺の気持ちもわかる?」
 影山はすこし黙ったあと、やはり神妙な面持ちで静かに頷いた。
 彼の顔から手を離し、天井を見上げて伸びをする。かすかに雨の音が、へやに漂っている。夕がたから降り始めた雨は、あしたの朝までつづくらしい。
「孝支さんは俺のこと、抱きたいんすね」
「んー……まあ、そうだなぁ」
 落ちてしまいそうな瞼を持ち上げて、天井と、影山の顔とを交互に見やる。うすやみの中で彼の輪郭はぼんやりと滲んで、けれど表情はよく読み取れる。
「影山は俺に抱かれたい?」
 困惑と動揺を隠せない影山を追いつめるように、くちにする。いじめているようですこし気が引けるけれど、彼を断崖絶壁にじりじりと後退させてゆくのは思いのほかたのしいものだった。
 片肘でからだを支え上体を起こし、壁に背中を貼りつけそうなくらい身を引いた影山を下から見上げて俺はいう。
「抱いてさしあげましょうか? たまには」


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