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水とタバコ

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5/3、トーキョー

ビッグサイトに生まれて初めて行ったおたくの日記です。


5/3のスパコミは夢のような時間だった。直前まで行けるかどうか(仕事的な意味で)わからず、職場との悶着も収まらず、すったもんだあって精神はめちゃくちゃ、だったんだけど、4月の終わりにとうとつに休みが取れることになり、それからはもう、違う意味で気持ちがたいへん。
(ちょう)一方的に大すきなかたと会えるんだあ~という期待に夜もろくに眠れず、かといって消耗するわけでもなくむしろ信じられないほど元気に生活ができていたこと、体力のない私にとり驚くべきこと。そのくらい楽しみで楽しみで楽しみで、始発の新幹線で東京まで。ちなみに新幹線のチケットを買った時にはもう指定席は満席で自由席だったんだけど何ら問題はなかった。っていうか指定席か自由席かなんてどうでもよくないか? 這ってでも行くんだから。

前回行ったのは去年の2月のライヴの時だったから、一年ぶりくらいに東京に来た。五連休の初日、東京駅は人でごった返していて、すでに東京のにおいがした。人並みに揉まれながら改札を抜け、山手線のホームに出た。ビルとビルのあいまからうす曇りの空が見えた。東京の空。
おたくのくせに生まれて初めてビッグサイトに行った。これまで機会はあっても勇気がなく、赴くことができなかった。イベントは、行けて地元のイベントくらいだった。国際展示場駅で降りた時、否、りんかい線の電車の中からすでにイベントの気配が漂っていて、私はすでに圧倒されていた。右も左もみんな、何かしら書く人たちなんだ~と思うと、なんだかすごいような、信じられないような、そんな気持ち。
人人人の波に押されながら会場まで歩き、気持ちはすでに高揚していて、心臓は早鐘を打っていて、列に並んでからも落ち着かず30分ほど突っ立って開場を待った。10時になって動き始めた列にまた流されながら巨大な建物の中に入った。
ビッグサイトの内部に足を踏み入れたのもとうぜん初めてで、数秒間は入場したことにすら気づかなかった。ここはどこだみたいな気持ちで、それでもおぼつかない足取りでスペースに向かった。

闇金、っていうか柄丑のお話をたくさんして頂いた。
死ぬほどほしかったご本を手に取った時、思わずぎゅっと抱きしめたくなった。実際、ご本を入れたトートバッグをその後だいじにだいじに抱きしめながら自宅にお持ち帰りした。

終電で家に帰ったら、朝と何も変わらない状態ですべてがそこにあって、何だか不思議な気持ちで、化粧を落として布団にもぐりこんだ。17時間で人はこれだけのことができるのかと思った。何も変わらない、何も変わっていない、台所のコンロに置きっぱなしのフライパンも流しに洗い上げていた片手鍋も。さっきまでトーキョーにいたのに、不思議。
寝て起きたら朝になっていて、それでもテーブルの上にはきのうの残り香、ご本と頂いたお菓子たち。テレビもコンポも換気扇もすべて消してまったくの無音の状態でお持ち帰りしたご本たちのページをめくった。どこを開いても柄丑が出てくる、柄丑がいる、そこに、生きている。きのうさせて頂いたお話の余韻もからだの深部にしっかりと残っていて、それが内側で響いている。全身がじいんと痺れるようで、ちからが抜けるようで、現実感がないのに今はちゃんと現実。往来は祝日の静かな朝。午後になれば私は実家に帰る。

BLはファンタジーっていうかSF(すこし、ふしぎ)っていうかそういうのなんだろうけど、柄丑はほんとうにほんとうにほんとうに、現実にいる気がする。この世のどこかで息づいて生きている気がする。たぶんきっとどこかで。そういう気持ちにさせるちからがある。つよい。

イベント、死ぬほど楽しかったからまた行きたいし、せっかくなら自分でも何かしらを出したいと思いました。2日あれば日帰りで行って戻れるってのもわかったので。

幸福すぎて、死。

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かなしみの

さいきんはずっとずっとエレカシを聴いている。さいきんになりようやくまともに聴くようになったのだけど、あの人の声にはせつじつさと悲壮感があっていいですね。「悲しみの果て」がいちばんすきなのですけど、「俺たちの明日」「孤独な太陽」「風に吹かれて」「ガストロンジャー」なんかもよくってえんえんと、ほんとうにえんえんと聴いている。

一人でいてもそこそこ平気なようになってしまったことに一抹のさびしさをおぼえる。何だかんだ一人でも、色々やっていけるんだなぁと思って、もういい年なんだからそれは当り前なんだけど、なんか、若い頃にあった切迫感やせつじつさや執着が年々薄れていっているのを感じて、たまらない気持ちになる。元々こういう人間だったのかもしれないけど。それが年とともに表に出てきただけかもしれないけど。たしかに在ったものを失っていくのは、やはりかなしいしさびしい。

ところで5月3日のスパコミに行けることになったのでさいこうにハッピーで夜も眠れない。直前まですったもんだあったのですけど、まあ、まあ、結果オーライ…と、思いたい。
始発で行って終電で帰ります。


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不良とは、優しさの事ではないかしら。

私、いわゆる不良モノといわれる漫画がすきなんですけど、漫画でも小説でも映画でも音楽でも、思えばずっとずっとそういうものばかりをこのんで読んできたような気がするんですけど、何でだろうかとふと思えば、
思考が閉塞しているから、閉塞感に包まれた人たちがそこで生きて、息をして、途方もない長い時間をかけて脱却していく みたいなストーリーがすきで、たぶん、そんなようなものがすきで、それは私自身の希求&願望でもあって、きっと、だからそういうものに魅かれちゃうのかな。
という答えに考え至った。ああそうか、そうか~~~と、思った。昨夜の話。

不良、若さの特権。ばからしいと嘲笑われて、役立たずと罵られて、最低と人に言われて、要領よく演技できず、愛想笑いも作れない、そんなロクデナシが、なんだかたまらなくいとしいんだよな。ろくブルの波がまた来てくれてから、いわゆる“不良”と呼ばれる人たちの、二次元限定ですけど、そんなことばかり考えている。

私自身は不良とは無縁の生を生きてるから、足掻いてもがいて自分の今いる現実から脱け出そうと必死な彼らが、羨ましくていとしくて仕様がないんです。私もそうありたかったなと思うんです。
太宰治の『斜陽』にある一文が思いだされる。

不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。不良とは、優しさの事ではないかしら。

私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。

これを読んだのはずいぶん若い頃でしたけど、あれは電車の中でだったかしら、心を救われたような気分になったんでした。なぜ、なぜ、救われた気持ちになったのか、あの時はわからなかったけれど。

不良とは、優しさの事ではないかしら。

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外は春の雨が降って 僕は部屋で一人ぼっち

けさ書いた手記です。



昨日がきょうになって、きょうが昨日になって、そうこうしてるうちに月の半分が終わってまた新しい月が始まって、季節はどんどん流れていって気がつけばまた年末を迎えてる。きっと。早いなあとか言いながら、また一つ年をとることに今からもう怯えてる。咲いたと思った桜も昨日の強風と降り続く雨に、いつの間にか散らされて、早くも葉桜である。今年は近所に咲いた満開の桜を見に行けたので、それはよかった。
どこにでも行けるし何にでもなれると思っていた時期はいつだっただろう。私はたしかにそう思っていて、あの頃は、それを微かな希望にしていた。しかし時間が経って、今、私は何かになれているわけでもどこかに行けているわけでもなく、未だにここにいる。来年も再来年もたぶん。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、少なくとも今、私はたしかにここにいて、何者にもなれずに。


音楽を、PCでもiPodでもなくちゃんとコンポにセットしたCDアルバムから聴くとよい気分になる。アルバムという文化がこれから先もずっとずっと続けばいいよなと思う。アルバムという作品が私はどの作品媒体よりもすきだ。いつか自分の書いた諸々を紙にする時があれば、アルバムのようなかたちにしてみたい。ささやかな願望である。やろうと思えばいつだってやれるんだろうけど。
いつか、いつか、いつか、を繰り返してばかりいる。もうとっくに大人なのに、いつか、を繰り返して、気がつけばまた時間が経っているんでしょう。
いつか、いつか、いつか、会いましょう。その いつか って、いつよ。実現させる気はとうぜんあるのに、どうにも、身動きがとれない。言い訳である。
願望はある、たぶん、たくさん。叶えたい気持ちも当り前にある。会いたい人はいる、「いつか、会おうね」を出来ればもう繰り返したくはない。私は我が儘なので、いつかではなくほんとは今すぐ、今、早く早く早く死なない今のうちに。また年をとっちゃう前に、早く。

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