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水とタバコ

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独りきり置いていかれたってさよならをいうのはおかしいさ

主体性を持たずに生きてきました。
我が強いとか根性あるねとかの言葉を戴くけれど、それは単に負けず嫌いで頑固で一度くちにしてしまったことやひとに頼まれたり「こうしなさい」と言われたことには責任を持たなければならないという強迫観念があるだけです。何がただしいのかとか間違っているかとは問題ではなく、やり遂げること、しか眼中にない。
自分の首を絞め続けて生きて、苦しいけれど、今さらこの生き方を変えろといわれても無理な話で、だから私の病気は治らない、(それでも僕らは生きていく)

真っすぐでありたいです。主体性がなくても言われたことを忠実にこなすだけの脳なしだとしても、一度決めたことは貫きたい人間でありたいです。そしていずれ自分で自分の人生を歩みたい。自分で自分の人生に責任を負いたい。
24にもなって未だにこんな程度の目標しか掲げられないのだからやはりすこしどうかしているのだと思います。


あけましておめでとうございます。
去年があまりにも速くて振り返っても残像さえ見えないかんじだったのですが、思えば(私にしては)たくさんの人と交流させて戴いた一年でした。関わってくださったかた、ほんとうにどうもありがとうございました…近々またお会いしたいですね。

人に恵まれていると思います。
私はいつも受けみで、与えられてばかりの人間で、何かをしてあげたいけれどできることが何もない。
また一つとしをとるのがただただおそろしくてこのまま何一つ成長できないまま老いてゆくのかなとか、
思うと絶望しますが、
もうかなしいのは要らないなとつくづく思います。今は自分ちでおそ松さん観てあへあへしてます。松さん観てあへあへすることで過ぎてゆくだけの2016年にしたい…何があっても笑っていてえ~死ぬこと以外は無問題~私は141寄りの数字松惜し(リバ可)


そういえばtwitterの鍵を開けてみました。sns向いてないからもうやめなさいなと思いつつ…日常のこと多めでしょうがお気軽にフォローください。
@txx0ri

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年の瀬

メリークリスマスでした。ブログ放置しててすみません。気がついたら広告が出ていてびっくりした。もうそんなに時間が経ったのか。
11月からつい昨日まで忙殺されていました。今にも崩壊しそうなメンタルをおそ松さんを観ることでなんとか支え、うっかり沼に落ちそうです。ミーハーで、すみません。
pixivでもtwitterでも右見ても左見てもおそ松さんおそ松さんおそ松さんおそ松さんおそ松さんで、圧倒されています。情報がグアーッと来ると混乱するたちなので敢えてひと様の二次創作などはあまり見ない(見れない)のですが、私の頭の中では十四松と一松がアツい。あのふたりデキてるんでしょ?このふたりのcpが数字松っていうの?なんかまだいまいちわからないおそ松同人界。そしてまんまと踊らされてる。


2015年が終わりそうで、この一年をふりかえってみたけれど、ふりかえろうとしても記憶がぜんぶ飛んでて何ともいえない気持ちになりました。何があったんだっけかこの一年。たしかに色々あったはずなのに、色々あったがゆえに何がなんだかよくわからない。
忙しかったな~よく一年頑張ったよ自分…クリスマスの夜にこんな記事を書いてる24の女、どう考えてもヤバいと思うんだけど、こういう生き方しかもうできないのだろうなってさいきんは諦めています。
今年の目標であった“人と関わる、へやを清潔に保つ”はだいたい達成できたけれどまだ不十分だから継続。“身形に気をつける”はぜんぜん気をつけられなかったから来年はもっと頑張ること。

年々、最低限のものしか持ちたくなくなってきて、必要のないものをばさばさ切り棄ててゆきたくなってきて、
よいのか悪いのかわからないけれど、身軽ではいたいんだよなあとは思っています。つねづね。
だからたぶん一生一人なのだろうなとも思うし、そんな思考回路しか今はまだ繋がっていないようなので。
何でもいいけどもっと色々書きたいね。甘いのから辛いのからしょっぱいのまで。
先日とっても嬉しいお言葉を戴いてしまったのでそれを糧にして。


みんなさま、平和なクリスマスを。

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あたためてやるよ(影菅・大人)

 大人になるということ、大人になったということ。


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 つまさきが冷たくて、菅原はベッドに放っていたブランケットを自らの足もとに掛けた。ラグに直接胡坐をかいて、ひどく熱いコーヒーを飲んでいる。点けっぱなしのテレビではかれこれ二時間、刑事ドラマが流れていて、主役らしき女刑事がいよいよ犯人に繋がる何かしらの証拠を発見したところだった。事件の内容や経緯などすこしも興味もないし頭に入ってなどいないのだけれど。
 浴室のドアの開く音がして、影山が風呂から上がったことを知る。キッチンで水を飲む気配がする。インスタントコーヒーをちいさなスプンにふた匙、カップに入れて、ポットから湯を注ぐ音、冷蔵庫から牛乳を取り出し、レンジで温める音が澱みなくつづく。カフェオレを作っているのだ。彼は苦いコーヒーが飲めない。もう大人なのに、と菅原はおかしくなる。
 ほどなくしてリビングに現れた影山は、自分用の紺色のマグカップを片手に持って、当り前のように菅原の隣に腰を下ろす。まだほかほかとする肌からボディソープとシャンプーのよい香りが漂い、暖房を入れていないへやで彼だけがひどく温かだった。
「犯人、わかったっぽい」
 彼のほうは見ずに呟くと、カフェオレを一口飲んだ影山は一瞬、目を眇めて、菅原を見、テレビに視線を映し、それからまた菅原を見やって、「なんの事件の話すか」と、そもそもの原点的なことを言った。
「わかんね。ちゃんと観てないから」
 心底どうでもよくて、リモコンを手に取る。てきとうにザッピングをして、けっきょく、国営放送の21時台のニュース番組に落ち着いた。何かを観たいわけでもないけれど、何もないのはすこし味気ない時、菅原はCMを挟まない国営放送を点ける。最低限の音楽と全国民から平坦な評価を受けられるように抑制されたアナウンサの声音と表情が、思考にも視界にも煩わしくはないのだった。
「寒くないすか」
 またひとくち、カフェオレを咽に落としたあと、影山は言った。「暖房、入れないんすか」。
「んー……、いや、いい。影山、寒い?」
「俺は、べつに」
 菅原さんが寒そうです、と、菅原の足もとを覆うブランケットに目を落として、影山はくちにする。
「これあったけーよ」
 そう言って影山の膝にもブランケットを半分掛け、菅原は影山にからだを寄せる。コーヒーとカフェオレとシャンプーとボディソープのそれぞれの香りが、ほどよく混ざって菅原の鼻をくすぐった。
「影山は体温高いからなあ」
 肩に頭を預けて笑うと、影山は唇を尖らせる。むかしからの、照れた時の彼の癖だ。ほんのすこしだけ眉を動かし、もの言いたげに視線を泳がせ、それで、けっきょくは何も言わない。その仕草を目にするたび菅原はたまらなくなった。もう大人なのに、いつまでもあの頃の面影を漂わせつづけている恋人が可愛くてせつなくて、苦しくなる。
 影山も、自分も、もう大人なのだった。すくなくとも互いに働いていて、一人でも生きていかれる程度には。
 それでも、あの頃からずっと、今もまだ、こうして二人でいっしょにいる。
 なんかをしてやりたいなあ、と、菅原は漠然と考える。先輩と後輩だった頃みたいに、この子にたいして何かをしてやりたかった。指導をしたり、肉まんを奢ったり、仲間との仲をとりもったりといった何かをしてやりたくて、けれどそれがすでに自分の役目ではないこともまた知っていた。自分がそんなことをしなくても、影山はもう一人で肉まんを買えるし、チームメイトとも上手くやれている。
 影山の、まだ湿っている前髪に触れると、彼はくすぐったそうに目を細めた。
「おまえももうすっかり大人だな」
 へらっと笑うと、自分が思っていたよりもその事実に疵ついていることに気がつき、すくなからずショックを受ける。
「菅原さんも、大人じゃないすか」
「まーな。煙草も喫えるし酒も飲めるし」
 会社に行って仕事して、上司に怒られて理不尽な残業して終電で帰ってくるくらいには。
「……ああ、なんか、」
 息を吐くように言葉をこぼす。影山の瑠璃色の瞳が薄闇の中でにわかに光る。
「おまえに色々してやりたいけど、できることがなにもないな」
 大人なのに、大人になったのに、大人になったからこそできなくなることがあるだなんて、あの頃はきっと考えていなかった。大人になれば大概のことは叶うと思いこんでいた当時の自分は、やはり紛れもなく子どもだったのだ。
「そんなことはないじゃないすか」
 単純な影山は、菅原の言葉をただそのままに受けとめる。ばかだなあ、と、菅原は思う。けれど、ばかなところは今さらすぎるのでくちにはしない。
「……感傷」
 ほんとうに、ただのばかげた感傷だ。浅く笑うと胸が痛んだ。この痛みをこいつは知らないんだよなあと思うと、憎たらしさで首でも絞めたくなってしまう。
 菅原はすっかり冷めたコーヒーを飲み干すと、ベッドからタオルケットを引っ張って影山を頭から包みこんだ。アイボリーの布に包まれる透き間から、驚いて見開かれた影山の目が見えたけれど、構わなかった。
「わ、ちょ、っと、すがわらさん、」
 カフェオレが僅かにこぼれて一点の染みをこしらえる。うわ洗濯めんどくさい、けどいいや、もう。
 タオルケットの中にからだを潜り込ませ、影山のからだを抱きしめる。風呂上がりの温かさはもうずいぶんと消えていた。
「からだ冷えてる」
 鍛えているからだが、たやすく風邪を引くわけもないことは知っていた。それにこいつは、ほんとうにばかだし。
「菅原さんのが、つめたいすよ」
 菅原の指先に触れて影山は拗ねたようにいう。それを無視して、タオルケットの端と端を合わせテントのように外界から遮断する。
「あたためてやるよ」
 薄暗がりの中、くぐもった声で菅原は言った。そこに微かに笑みが滲んだ。
「できることがないから、せめて」



 (BGM あたためてやるよ / 阿部芙蓉美)

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キョート





京都にゆきました。一泊二日。

もう数年前からすきで、勝手にお慕いしていたかたにつねづね熱烈なラヴコールを送り続けていたところ、見兼ねたのか、逢ってくださるということになり、わーい!となって行ってきました。

新幹線を乗り継いで4時間。人生2度めの京都。世間様的にもシルバーウィークで人がごみのような京都駅は都会的で、近代的で、西のお国のことばが飛び交っていて、ときおり英語や中国語もまじっていて、迫力がありました。







一乗寺にある八大神社、詩仙堂、圓光寺を案内して戴き、庭に面した畳の間でしばらくじっと外を眺めていた。ずっといれると思った。

寺社仏閣の知識など皆無にひとしい私(だいたい、いつも、フィーリング)に、一つひとつ丁寧に案内してくださった。

天気にめぐまれて、気候もほどよく、歩きまわれば汗ばむくらいだったのだけど、よい時季に来れました。



有名(私は知らなかったのですが)な恵文社にも連れてって戴いたのですが、なに、このすてき空間…ってかんじで、ああいうのをみるとやっぱり私も何かしらを書きたい作りたい、って気持ちになってしまう。





かれこれ7年くらい(さだかではない)ネット越しに片想いしていたかたと、まさかこんなふうに実際にお逢いして、お話ができるなんて信じられなくて、私は終始緊張でがたがた震えていたのに、こんなストーキング野郎をあちらは心優しく迎えてくださって、

まったくもって頭が上がりませんでした。

優しくて品のある、井.川.遥似のすてきなお姉さんで、抹茶の和パフェを食べる所作のいちいちがうつくしく私は私の雑さを恥じた。







すきなものを増やしたくて大事にしたいものを抱えていたくて、24歳にもなって今さら、これまでの棒に振った時間を埋めるようにあちこちみて歩いたり人と会ってみたりして、

自分のために、ただただ自分のために生きていきたくなって、

でもそれをかんぜんに肯定して心からこころを傾けることに不安もあって、私ばかり私ばかり私ばかり、私ばかりしてるなあこんなふうに楽しんでしまっていていいのかなあって不安を感じたり罪悪があったり、して。

楽しんでいいんだよ安全で安心な場所に身を任せていいんだよって、

思いたいのにおもうことに恐怖が、ある。

みうごきが、とれません。



楽しい嬉しい可愛い面白いすきここにいたい。あれみたいこれしたいあすこに行きたい。

かえりみちで唐突に津村記久子の『ポトスライムの舟』を読みたくなって、帰宅してから読んでるけど、

胸に抱いてわーんて泣きたいような気持ちを言語化してくれているからいつだって泣いてしまう。

「もっと自分は望んでいいはずなのだけど。それこそ望むだけなのだとしたら。」

ちょっと自分本位すぎるかな。でも切実に私は、私を生きたくなってきているんでした。



 夜の電車の暗い窓に映る自分を探すぐらいのことで過ぎていく毎日。忙しくしているのは自分自身じゃないのかという自問が首をもたげるが、忙しくしないと生きていけないのだ、とすぐに心のどこかが応える。家を改修しなければいけないし、毎日ごはんを食べなければいけない。暗い夜には電気をつけ、暑い夏には冷房を、寒い冬にはこたつや石油ストーブを動かせるだけの生活を維持するために。

 維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。

 ――『ポトスライムの舟』 津村記久子




生きている限り人間だから、どうしたって人間だから、みんな幸せになりたいし誰かに承認されたい。ここにいて、生きているのだとゆうことを誰かに知っていてほしい。すくなくとも私はずっとずっとさびしかったし幸せになりたかったしみとめられたかったし生きていてもいいんだよここにいていいんだよって誰かにゆってほしかった、今もむかしも幸せじゃなかったなんてことはないしじゅうぶんに恵まれていたし生かしてもらった、つねに焦燥がつきまとっていたとしても周りの人たちのぶきような愛情はあたたかかった。でもそれ以上を希んでしまう。もう大人なのにいまだに誰かの許可を求めている。



贅沢だな。

今にきっとわかるよ。

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かなしみ

いわゆる“よいもの”をつくる人は、あらゆる物事を寛容に受け容れられたのしめる人か、圧倒的なかなしみに暮れている人かのどちらかしかなく、その二つともを具えていられれば怖いものなしなんだろうけどそんな人間そうそういなくてどちらかが具わっていればまあラッキーくらいの心もとないものなのかもしれない。そして前者でも後者でもその具わったものというのは一生のもので一生纏っていざるをえない脱げない鎧で、前者が一生をかけてすべての物事を寛容に受け容れたのしんでいるいっぽう後者は一生しぬまで圧倒的なかなしみに暮れているほかないんです。むしろ圧倒的なかなしみに暮れなくなってしまえばもうそこで終わりなんです。圧倒的なかなしみから解放されてしまえばその人はもうかつての“よいもの”をつくったその人ではなく、だからその鎧はけっして脱いではいけない呪。

「幸せになってはいけないよ、笑っていてはいけないよ、泣いていなければいけないよ。一生そのかなしみを脱いではいけないよ。」

誰かが囁くからきっと一生幸せにはなれない人がいるということ。


そんなかなしみに暮れている。

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