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水とタバコ

私はばかなので

 *

 44度の湯舟に浸かってすっかり火照ったからだを冬の、夜風に晒しながら、濁った思考の中に必死で言葉を探していた。冷蔵庫に残っていた食材でもってかんたんな夕食をこしらえ、胃袋の空白を埋めるようにしてひどく熱いコーヒーを淹れて飲み、肴にと煙草を吸って入浴し、髪を乾かし醜く乾燥した肌に申し訳程度の安物の保湿ローションを塗りたくりそうして、また煙草を燻らせながら冬の、澄んだ夜空をみあげていた。
 からだの芯に一日の疲れが澱のように溜まっているのを自覚する。自覚すればするほど意識は朦朧と混濁してゆき、言葉にしたい言葉など何一つ浮ばなくて、くるしい。
 そんな状態がもう何日もつづいていた。
 かつてひそやかにひそやかに恋うていた人からのたよりに、愛しくなぞるようにして視線を走らす。私は彼女を知らず、彼女もまた、私を知らない。
 『いつか、会いましょう。』と、そう彼女は書いていた。
 私がそのたよりを受け取ったのは、みぞれの降るひどく寒い昼下がりだった。
 今とおなじくして煙草を、いたずらにふかしながら落ちてくるそれらの言葉を一つひとつ、飲みこんでゆくと、言葉はからだの、心の、深いところに沈みこみ、それは音もなくかたちもないものだったが、ただ彼女のつくり上げる美しい言葉が、私の愛したかつての一部が、私の深部に降り積もるのを、感じた。
 ふれれば、ひやり、とするような、そのくせやわらかく温かな不思議な言葉たちだった。
 声を失くしたわけでも言葉を忘れたわけでもないのに、私には、それらの言葉にこたえる術がまるでないのを自覚した。
 呼吸ができないような、思考がしずかに縮れ千切れてゆくような、もがけどもがけど何一つとして適当な言葉がみつからないのだった。それが、ひどくはがゆくてくるしい。
 『いつか、会いましょう。』と、彼女はいった。
 彼女は私を知らず、私もまた、彼女を知らなかった。
 伝えられた言葉を視線で追い、そこに彼女の存在を感じた。ほとほとと涙がこぼれた。伝わった、という安堵と、伝えられない、というはがゆさ。その曖昧なはざまを、冬の、痺れるほどの寒さが縁取ってゆく。
 一片のこまやかな雪が足もとに落ちた。

 *

いいたいことが、伝えたいことが、たくさんあって、誰にとかでなくあなたに。けれどそれらがあまりにも膨大で、過去を(私や、あなたの、過去を)ほじくり返す難儀な作業をしながらのもので、たいへんで、何をどうしたらよいのやらまるでわからなくって、けれど人間だから言葉を発して生きてゆかねばならぬ人間だから、一つひとつを何とかかんとか伝えてゆかねばならんのですね。私はばかなのでむつかしいことができません、むつかしいことはわかりません、ややこしいことは知りません。ただただあなたとお話がしたい。それだけなのです。

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