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水とタバコ

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口内炎痛い



どうしようもなくぽつねんとしてひとりで、へやは散らかっているし、ふと「お外で美味しいものを食べよう」と思いたち、お天気もまあまあよかったので、車でとなりまちの、沼のあるおおきめの公園に行ってきました。途中でサブウェイ寄ってマスカルポーネなんちゃらのサンドウィッチと野菜スープとコーヒー買って行きました。平日だというのに否平日だからか子どもたちがわきゃきゃわきゃきゃ遊んでいて当然のごとく引率のおかーさんがたが群れをなして坐りこんでおしゃべりに興じていて、ほかにもゲートボールしてるおじいちゃんおばあちゃんとか犬の散歩してる人とかジョギングしてる夫婦とか、そういうのどかな景色をながめながら東屋でサンドウィッチを食べた。あのおねえちゃん一人でごはん食べてるーとか指差されて笑われないかなどうかなとかおかしな心配をしていたけれどそういうふうな目でみる人の気配はまるでなく、ああ私のしてる行動なんてべつにどこにでもあるものなのだなと思って安心した。私は私をとくべつだなどと思ったことはなかったけれどへんに自意識過剰でやたらとひとめを気にして緊張してしまうたちなので、“だだっ広い公園で一人でサブウェイのサンドウィッチほおばってる痛い女”という像を自分の中でせっせここしらえて、いて、でもそんなのは、所詮私の頭の中だけの世界だったのだなあ、世の中にはこんなにもたくさんの子どもたちとおかあさん方がいて、ゲートボールしてるかたたちがいて、それぞれおのおの勝手にたのしんでいて、みんなこういうふうに好きに自由に時間を過ごしてるんだなあ、私もこうゆうふうに生きていてもいいんだなあなどと、もうすっかりぬるくなってしまったコーヒー飲みながらちらちらと落ちてくくすんだ色の葉っぱをみていた。マスカルポーネなんちゃらのサンドウィッチは、サブウェイははじめてとか2回めとかそのへんだったのだけれど、挟んであるマスカルポーネと生ハムのしおけと、はちみつが練り込んでありますとのうたい文句を掲げていたパンのあまみが絶妙で、うめー!とか思いながらもりもり食べてしまった。私は美味しいものを食べると一人でにこにこしてしまうんだけどほんとうに頬が緩んでにやにやしてしまいけれどそんな私をみてる誰かはどこにもいない。
おひさまが頭のてっぺんに差しかかってほんのりとはちみつ色をしてひどく、とてもひどくおだやかで、風はつよく髪を樹の枝を煽っていった。目の前でサッカーしてる子どもとおとうさんのようなおじいちゃんのようなたぶんおじいちゃんかな子どもちいさかったし、そのふたつの影をぼんやりみつめここって煙草すっていいのかなだめっぽそうだな火器使用厳禁とか書いてあるしなとかそんなことを考えていたら歩きたくなってごみをバッグにつめて沼につづく坂道をのぼってった。
沼には白鳥が一羽だけいて、そいつは人気者で子どもたちが自分のおやつと思しきお菓子をわあわあ与えていた。鴨がたくさん集まってくるのに子どもらの目には白鳥しか映ってないみたいだった。私はとてもとても久しぶりに白鳥を、こんなにちかくで拝んだなと思い、子どもらのすこし後ろでコーヒー啜りながらアイフォンのシャッターを押した。
白鳥をみるのもだけれどそもそも、この沼のある公園に来るのだってほんとうにとてもとても久しぶりで、そう思うともっと歩きたくなって、どんどんと樹々の生い茂る森の中に進んでいった。どんぐりの樹のにおいが漂う静かな森の、静かな木洩れ日を浴びているとふいに、小学生の頃、学校から帰った家の様子をおもいだした。家の様子といっても具体的なものではなくて、このくらいの時期のこのくらいの時間の日の光だとかそれが差した居間のにおいだとか気配だとかそういうのだったけれど、そうゆうのをふっと思いだして、にわかに苦しくなった。


実家の自分のへやのクローゼットにあった、かつてすきでかき集めていた色々な色々をすべて段ボールにつめて手離した、ら、胸にぼっかり穴が空いたようになって身動きがとれなくなった。あれ? と思った。何が、あれ? なのかはよくわからないんだけれど、とにかく、あれ? って思った。
むかし、といってもつい一年前の今頃まで私は完全に頭がおかしくて、毎日泣いたり喚いたり吐いたりしていてぼろぼろで、互いに引きずって引きずられてふりまわしてふりまわされていた家族もおなじくぼろぼろで、身動きがとれず、もういっそみんなで死のうかみたいな時期もあったりして、そういうのが7年くらいつづいて、私は十代を棒に振ってしまったのだけれどそんな頃に心のよりどころにしていた色々な色々を、今、直視することができなくて、苦しくて、たえられなくて、ぜんぶ棄てた。あれらをゆっくり手にとって「そんなこともあったわな」って思えるようになるまでには時間が必要だと思ったけれどもうすこし待つのもよかったのかもしれないけれどその必要とされる時間がどのくらいなのかわからなくてその時が来るのがとてもとてもとてもこわくて、ちょうどテレビで今世の中は老前整理というものが流行ってる、とかゆうのをみて影響されたところもあり、もう強迫的に片さなきゃきれいにしなきゃ棄てなきゃって思ってその衝動はどうしようもなくてとにかく目につくものすべて引っぱり出してつめて売れるものは売って残りはすべて燃やした。そうでもしなきゃもう私はあそこにはいられないと思った。ちまなこで段ボールを車につめる私をみる父の目がひどくさびしそうで、私にはそれがいちばんかなしかった。
手離した途端茫然として、かなしくてせつなくて一人で泣くようになって、それは惜しさなどではなく、あれらにつめたたくさんのこれまでを悼んでの感傷で、こういった誰もが通る一連の儀式めいた感傷を乗り越えたら私はほんとうに大人になるんだろうなと思った。そういう時期が必ず来るんだろうなと思った。
あれ?って思いながらそれでも生きてかなきゃなんないわけで、あしたは仕事だしへやの掃除したり作り置きのお惣菜作ったりしなきゃとかそんな庶民らしいってゆうか庶民なんだけどそんな思考が私にもあって、でもふいに思いだしてからだが強張る。へやの絨毯に夕日の差す様をみてしまった時とかつめたい風のにおいを嗅いだ時とか、実家のおいしいごはんを食べてる時とか、こうゆうおだやかな時間がしんそこ幸せででもいつか終わるんだな、私がかつてのあれこれを棄てた時とおんなじ呆気なさで終わってしまうんだろうなって思って居た堪れなくなるのだった。

森の中をせっせせっせと歩きながらなんとなく、今の、今の生きてるってことがあれからの余生のような、
もうすでに人生の黄昏時のような気がしてきて仕様がなくなってしまい、
それはべつに「じゃあもう死のう」とかそういう後ろ向きな考えによるものではなくあくまで「そうなのかな~」って思ったってだけで今さらもう死のうとか死にたいとか思わないのだけれど(むしろ生きていたい)、
「あっ、私の人生ってもうこのくらいなのかな」「あとは老いて死んでゆくだけなのかな」って、とうとつに閃いた。
なんかもういいかな、いいよなって思ったら、なんとゆうか人生ってこんなもんなのかしらと思ってすこし心強くなった。


きっと敷地内禁煙だろうと思ったから一通り歩いて歩き疲れた頃、来た道をすこし戻ったところにあるデパートの喫煙所で煙草をすった。瞼に受けとめた日差しはやわらかくあたたかかった。こんなふうな休日の時間を過ごしたことってなかったから新鮮だったし思いがけずたのしくて、時間はまだ午後の1時頃だしそれもとてもうれしかった。食品売り場で美味しそうなお惣菜を買ったのできょうのお夕飯はちょっと豪華だしなんか私すごい自由だなほんとなんだってできるなって思えた。




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