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水とタバコ

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天国への

影菅、大人、ヴァージョン、テイク・ツウ(あたり)

***

 車内の空気はあたたかく停滞していた。軽い走行音に降り出した雨が絡まり、フロントガラスの向こう側が白く煙る。
「見にくいな」
 運転席で、菅原が呟いた。視線を投げれば、夜の闇の中に彼の曖昧な輪郭がぼんわりと浮かぶ。滑らな頬を対向車のヘッドライトが舐めるように照らした。いるはずなのに存在が非道くおぼろで、夢のようにさだかではない錯覚をしてしまうのは、このあたたかさのせいだと影山は知っていた。さらにいえばとても疲れていて、頭の芯がぼうっとしている。
 ふたりきりでいられるこの時間が惜しく、すこしもねむりたくなどない。けれど、背筋を撫でる車の振動が心地好くて、今にも瞼が落ちてしまいそうだった。
「……ねむい?」
 耳朶を彼の声が掠めた。はっとして居住まいをただすと、菅原は笑って、
「ねむいなら寝ていいのに」
 と、言った。
「……ねむいっすけど、」
 寝たくないです。駄々を捏ねる子どものような科白だと、自覚すればみょうに照れくさい。あくびを噛み殺しながら窓枠に肘をついて、雨に濁る景色に視線を放った。
 10月の雨はつめたく、静かに街をひやしていた。ひと雨ごとに冬が来る。地元にいた頃、この時期になると祖母がよく言っていた。ひと雨ごとに冬が来る。先人の、経験によって導き出された言葉の意味を、大人になってからようやく理解できた。9月の残暑はいったいどこに行ってしまったのだろうと不安になるほど、季節はどんどんと、冬に流れてゆく。
 車のタイヤが道路を滑る音はしずかで、時折り水溜まりを踏む、かすかな音が聞こえる程度だった。ささやかに耳を撫でるような、けっして不快ではない音。
 数メートル先の信号が黄色に変わり、瞬く間に赤になる。
「雨の夜の運転て、苦手だ」
 ブレーキをゆっくりと踏みながら菅原は言った。「最近、近眼ぽくなってきたし」。まだ眼鏡をかけるほどではないけれど、疲れてくると目が霞んでくるという。
「すんません、やっぱ、俺も免許、とります」
 思わずそう言えば、菅原はふきだした。
「ちがうちがう、そういうことでなくて」
「でも、いつも迎え来てもらって悪いじゃないすか」
「や、それはぜんぜん。むしろ影山は免許なんてとんなくていい、ってか」
 練習や遠征から帰るたび、菅原に駅まで迎えに来てもらうことに、影山は気兼ねしていた。出かける前に必ず、「帰る時連絡しろよ」と言いつけられ、その言葉を忠実に守っているうち、いつしかふたりのあいだの習慣になっていた。菅原の所有である軽自動車は、車にまるで詳しくない影山にも、中古の、その中でも特に安く古いものであるとわかった。修繕に修繕を重ね、何とか生きながらえているといった態で、けれどそのオンボロな具合がやけに落ち着くのもまた事実なのだった。
「別に、要らないじゃん? 俺がいるし」
「……はあ」
 菅原のいう言葉の意味が飲みこめず、頓狂な返事をする。
「俺がいるあいだはさ、俺が乗っけてってやっからさ、どこまでだって」
「菅原さんいなくなったら俺、困ります」
 青信号に変わり、車は再び夜の街を走り出す。菅原の指がラジオのスウィッチを押し、ざらついた電波に乗って低い音楽が流れ始めた。繊細そうなギターのイントロで、英語の歌詞であるその歌を影山は知らなかったけれど、今の車内の空気に非道くよく似合うと思った。
「これ、うちのとーさんがよく聴いてたやつだ」
 メロウな旋律と、ひきつるような中低音のヴォーカル。重たくてどこか息苦しささえ感じるのに、とろとろとしたねむりに引きこまれそうだった。
「……着いたら起こすから、ねむってていいよ」
 菅原の声が耳に落ちる。頭をシートに預け、からだをしずめてゆく。ギターの音が、ヴォーカルの声が、遠ざかってゆく。おやすみ、と彼がいうのを、閉じていく意識の片隅にひっかけた。
 車内の空気はあたたかく停滞している。その中を這うような旋律が、夢のようにまぼろしのように、もつれて、溶けて、消える。


 天国への階段 / Stairway to Heaven // Led Zeppelin

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