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水とタバコ

ハル

いったいいつからこのブログを書いているんだろうと思って遡ってみれば2011年とかそこらだった。ろくねんまえ。ろ、6年前…?となったけれど、あれから私はずいぶんと年をとり、疲弊し、消耗し、色々を失ってきたように思う。読む本の量も観る映画の量もぐっと減って、生活に追われて日々を過ごすのに精いっぱいでその間に家賃や光熱費などの生活を維持するための金を払い、何とか細々と生きて、生きて、生きて、この先のことをぼんやりと考えたりもする。そのあいだにあったたくさんの良いこと楽しかったことを心のなかに仕舞いこんで後生大事に抱えて、そうやってこれからも生きてくんだろうなあと思う。春なので、もう世の中すっかり春なので、私の精神はぶっ壊れてしまった。それでもけさは何とかかんとか9時に起きて、朝ごはんにうどんを食べて、午前の受付終了間際の病院に駆け込み、やらねばならない用事を済ませ、買い物をして、帰ってきて、貴重な休みの昼下がりにこんな記事を書いている。私はいったいいつまでこんなことを書いて一人の時間をやり過ごすのだ?と思いつつ、やっぱりこうゆう時間がまだまだ必要なようだった。

人が来るので久しぶりにへやの掃除をした。12月に引っ越してきてからまともに掃除をしていないへや、とても人を上げられるような空間ではないけれど、せめて、といったていで埃を落として掃除機をかけて、洗濯をした。掃除機をかけながら、狭いへやは阿呆ほどものに溢れていて、すぐに厭になってしまう。こんなにものは要らない。と、つくづく思った。
いつからか、どうせいつか死ぬんだからと思って生きるようになり、ものを持つことに消極的になっていた。それでも生活していればものは増える。その、増えていく、という過程が吐き気がするほど厭で厭で、たまらなくて、溜まっていくことがストレスで、どんどんどんどん棄てたくなった。もう、何もかも必要のないものに思えて、どうせいつか死ぬんだからもう何も要らないな、ぎゃくに何が必要なのかなと思うようになっていった。本やCDや映画のDVD、人から頂いたたいせつなもの、などは思い入れがあるために手離すことはできないけれど、それ以外のものはもう要らなかった。引っ越しの際にずいぶんと棄てたり売ったりしたのに、へやには、まだまだ要らないものが溢れている。私は苛々してくる。ごみ袋に要らないものを突っ込んでいく。かつてたいせつと思っていた色々が、その途端にごみに変わる。一抹のさびしさとせつなさで胸が痛む。けれど残しておくことで私の感じるストレスや妙な異和感を思えば、瑣末なことのように思えた。人はいつか死ぬから。いつかはぜんぶ終わるから。そう思うと、憑き物が落ちるようにすとんっと心がらくになる。薄情かもしれない。後何年生きるつもりだとも思う。それでも棄てる・手離すという行為をやめられそうもなかった。春は人を狂わせる。春の陽気に精神が殺されてべそべそに泣きながらpcに向かっている。何のためなのかわからない記事を書いて、すこしでも気を紛らわせようとしている。春はうつくしい。春はおそろしい。私はまだことしの桜もみていない。

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