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水とタバコ

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ドーナツ食べたい

落ちる先を見失った影菅(でも上げちゃう)


xxx

 ――なんか、ドーナツ。食べたいかも。
 菅原さんがそう言ったので、部活のない日ようの朝、わざわざ電車に乗って、街中にあるドーナツ屋に行くことになった。唐突だった。

 薄い陽差しでみたされた店内はぬくぬくとして、甘ったるい匂いにあふれていた。ショーウインドウに並んだいくつもの色をしたドーナツが、目に痛い。息をおおきく吸って、細く吐いて、すーげー甘い匂い、と、隣で菅原さんが言う。心なし弾んだ声音で、表情は、うれしそうに綻んでいる。それを見て、嬉しそうだな、と俺は思った。
「こういうとこ、俺はじめて来ました」
 正直に告白すると菅原さんはすこし驚いたように目をひらいて、嘘、とくちの中で呟いた。
「来たこと、ないの」
「はい」
「へえ。いちども?」
「……はい」
 俺はすこし、恥ずかしくなって、思わず俯く。けれど菅原さんは納得したように「そうなんだ」と、やわらかな調子で、言った。
「ああ、でも、そうかも」
 おまえがドーナツとか、あんま、似合わないもんなあ。
 そうして菅原さんは八重歯を覘かせてへらっと笑うのだった。頬に朝の光を受けて微笑むさまは、光のせいか、ひどくまぶしくて、真っすぐに見れなかった。
「すんません」
 何に対する謝罪なのかわからなかったけれど、そういう気持ちになって、謝れば、案の定彼は「なんで謝んだよぉ」と俺の頭を手のひらで雑に、撫でた。
 あたたかで甘い匂いに満ちた店の、たっぷりの光の注ぐ窓際の席にふたり向かい合って坐る。先に買っておいでと言われ、買い方がわからないと首を振れば、彼はショーウインドウを指差した。
「あそこで好きなのえらんで、会計すればいいんだよ」
 教えられた通りに俺はトレイを持ってドーナツの群れの前に立った。世のなかにはこんなにも色々な種類の、色々な色をしてかたちをした食べ物があるのだなと、ばかみたいなことを思う。油を吸ってしみを作る薄い紙の上に並んだそれらは、見るからに甘そうで、胸焼けがしてくるようだった。どれが美味しいんですかと菅原さんに訊いたけれど、美味しそうだと思ったの食べてみればいいよと彼は笑うばかりで、しつこくは訊けなかった。
 数分迷って、一般的なかたち――まるくて、まん中に穴のあいた――の茶色のものと、もこもことした丸のいくつもついた、きなこ味のものを一つずつトイレに乗せ、レジに置いた。
「ふつうなの持ってきたな」
 席に戻ると菅原さんはおかしそうに笑う。
「何にすればいいか、わかんなくて」
 財布に小銭を落としながら、俺は言い訳するみたいに言った。
 菅原さんが席を立ち、ウインドウの前を右に行ったり左に行ったりするのを、硬い椅子に坐ってぼんやりと眺めた。
 時間がまだはやいからなのか、店の中に客はすくなく、さわさわとした話し声が自分とは無関係の場所から漂ってくる。誰が何を話しているのかまったくわからないし、それはとても耳障りがよかった。
「コーヒーとカフェオレ買ってきた」
 トレイを持って戻ってきた菅原さんが、俺の前に、カフェオレの入ったカップをトンと置いた。あざす、と返事をすると、彼は咽の奥で笑って、
「なんか影山のそれ、“あざす”ってヤツ、ここで聞くとほんとに似合わないな」
 と、言った。
「ラーメン屋とかさ、坂ノ下とかさ、そういうところでならわかるけど。こうゆう、ふわふわした場所で聞くと、なんかちょっと面白いな」
 ふわふわした場所、というのがどういう意味かよくわからなかったけれど、言いたいことは伝わったので、たしかに、と俺も思った。
 菅原さんのトレイには、白くこまかい粉がまぶされた、あいだにクリームの挟まったやつと、蜂蜜に塗られてらてらと輝くおおきめのドーナツが乗っていた。
 コーヒーを両手にかかえて啜り、クリームの挟まったやつを菅原さんは三本の指でつまみ上げた。白い粉で指先が染まる。一口、齧る。ドーナツのかたちが歪む。唇が粉にまみれる。それを、赤い舌が器用そうに舐めとる。 そういった動作を黙って見つめていると、菅原さんは目を眇めて――たぶん、陽差しがまぶしいのだ――、食べないの影山、とたずねた。
「食べないなら、俺食べちゃうよ」
 そうして手を伸ばすので、俺は慌てて、自分の皿の茶色いドーナツをつまんで一口、齧った。表面がかりかりとして、生地はすこし硬くて、砂糖の味が舌の上に拡がる。甘い。けれど、食べられない甘さではなかった。
「美味しい?」
 瞳を覘きこむように彼が問う。はい、と正直に、首を縦に振った。
「甘いっす」
「そりゃ、ドーナツだから」
「美味いっす」
 そか、よかった、と彼は、満足げに微笑んで、コーヒーを飲み、ドーナツをまた一つ、齧った。
 もったりとした生クリームが、俺は苦手だったけれど、菅原さんの食べる姿を見るとそれはひどく、美味しそうに見えてならなかった。彼がほんとうに美味しそうに、嬉しそうに食べるから、よいものに見えて仕方がなかった。
「それ、美味しいんすか」
 それで、そう訊いた。食べたいの? と彼は俺の目を見つめた。そうではないけれど、美味しそうだから。美味しいのかなと思って。そういうようなことをもごもごと、くちの中で呟くと、菅原さんは指先に残ったひとかけらを、俺のくちもとに近寄せた。
「食べてみ。美味しいから」
 ふわふわとした生地の、甘ったるそうな生クリームの、匂いが、鼻先を泳ぐ。一瞬だけ躊躇して、彼の目を見やって、それから、くちを開けてみる。前歯の先で生地を噛む。やわらかな感触が、あった。くちの中に放られたものを、奥歯で噛みしめ、飲みこめば、かけらは甘さを残してあっという間に消えてしまった。
 美味しい、と、ごくちいさな声で、言う。 だろぉ? と、菅原さんはゆったりと微笑んでみせた。
 指先についたクリームと白い粉を、彼は舌でぺろりと舐めた。甘さが、彼の舌に拡がってゆくのを想像する。
「なんか今のやつ、菅原さんに似てますね」
 ふいに閃いたことをくちして、すぐに、後悔した。我ながら意味のわからないことを言ってしまったと思った。ぽかんと目をまるくさせた菅原さんから逃れるみたいに、視線を手もとのドーナツに落とした。
 皿に敷かれた薄紙に、油のしみと、光のまだら模様が浮かんでいた。
「なにそれ。みためがってこと?」
 ふふっ、と彼が、笑う。
「いえ、なんか、なんとなく」
 言われればたしかにみためも、そうかもしれなかった。ふわふわとして、もったりとしていて、黄色がかった白の生地。
「なんとなく、似てるなって」
 それだけ言って、誤魔化すみたいに残りのドーナツを頬張った。くちの中に生クリームの甘さが残っていて、それがなかなか消えないことが面白いと思った。
 店に差す陽がだんだんと、つよくなっていく。甘い匂いがする。光そのものが甘いのかもしれない。息を吸う。息を吐く。 咽の奥に甘さを押しこむように、カフェオレの残りを飲み干した。

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