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水とタバコ

これが私の優しさです

戌丑(戌亥くんのことばは軽い)



「丑嶋くん、すきだよ」
 駄菓子をしゃりしゃりと噛み砕きながら、戌亥は唐突にそう言ったものだから、そのことばは駄菓子並みの軽さをもって丑嶋の耳に届き、お土産だと渡されたよっちゃんイカを齧りながら丑嶋は「ふーん」と鼻から息をこぼした。
「何、“ふーん”て」
「いや、べつに」
「俺いまけっこうな告白をしたつもりなンだけど」
 くちもとに駄菓子の粉を付けた顔を丑嶋に向け、戌亥は笑った。端正な顔をしている。いつもスーツを着て、髪もきちんと整えて、ちゃんとした大人の顔をして丑嶋に向きあう。まっとうな人間といった風情の男と、大きめのパーカーにだぼだぼのジーンズといういでたちの自分が駄菓子屋の軒先に並んでしゃがみこんでいる景色は、傍から見たらだいぶとシュールだ。それを丑嶋は自覚しているし、戌亥もまたそのはずだった。子どもの頃は、おなじように二人して駄菓子屋の前に佇んでいても何もおかしくなかった。顔馴染みのおばちゃんがおまけをくれることしょっちゅうだったし、小遣いがなくても手持ち無沙汰になることはなかった。
「ウメーなこれ」
 噛めば噛むだけ味が滲み出てくるよっちゃんイカは、かれこれ三十分ほど噛み続けているが未だになくならない。その間、戌亥はうまい棒を三本平らげた。今、食べているのは四本めだ。
「お前ほんとにそれすきな」
「まァね、不思議と飽きが来ないンだよな」
 企業努力が窺えるよ、としみじみ語る戌亥は四本めのコーンポタージュ味を前歯で折り、しゃりしゃりと咀嚼する。いくらなんでも食いすぎじゃねぇの、と思ったが、わざわざ言うのも億劫に思えて、丑嶋は黙ってよっちゃんイカをしゃぶる。
「ところで丑嶋くん、しれっと流してるけど」
「なに?」
「さっきの聞いてた?」
「なにを」
 高い位置から降り注ぐ陽差しに目を細める。眼鏡越しに太陽の光を見てはいけない、と小学生の頃だかに教えられた。当時は眼鏡などかけていなかったから無縁の話と思っていたが、大人になった今、ふいにそのことを思いだす。誰に言われたのかは忘れたけれど。
 子どもの頃に要らなかったものが成長するにつれ必要になっている、眼鏡やら車やら、金やら。生活に必要なものは必要だから、享受する以外に選択肢はないが、あってもなくてもよいものはできるだけ持っていたくはない。無駄なものは身体が重くなって、いけない。丑嶋はいつも必要最低限のものしか要らなかった。今はそれは眼鏡や車や金で、逆に子どもの頃に必要だったものはいつの間にか手離していた。駄菓子も、そのたぐいのうちの一つである。
「俺が、丑嶋くんのことがすきだって」
 うまい棒を飲みこんで、親指の腹で唇の端を拭う。丑嶋は浸み出してくるよっちゃんイカの酸味を味わいつつ、
「あっそ」
 と、言った。
「ドライだね、丑嶋くん」戌亥は渇いた笑いを洩らした。「相変わらずで安心するよ」
「わかってンだろ、そのへん」
「まァ、まァ、ね」
「なんかムカつくなお前」
「えっ、なんで」
「軽い」
 駄菓子並みに、軽い。噛めばほろほろと砕けてしまうくらいに、戌亥のことばは軽かった。
 だってさァ、と戌亥は天を仰いだ。彼に倣って視線を空に向ける。春めいてきた陽の光は冬のそれより質量を増し、心なしか白っぽい。
「丑嶋くん、重いの嫌いじゃねーか」
 だから、これが俺のせめてもの愛情。戌亥はそう言って、咽の奥で笑う。
 寂れた駄菓子屋の通りは、今ではほとんど人も通らず、それに比例して子どもたちの姿もすくない。むかし、おまけをくれたおばちゃんは数年前に死んだと彼女の娘であり今は店員である店の女が言っていたそうだ。初めてそれを戌亥を通して知った時、自分の手のひらからまた一つ、かつて必要だったものが抜け落ちた感触を丑嶋は覚えた。音もなくこぼれ、音もなく地面に落ちて、消える。
「そうかよ」
 丑嶋はよっちゃんイカを噛み砕いて飲みこむと、煙草を取り出して火をつけた。煙を吸う。煙を吐く。吐き出された細い煙は静かに空へ昇り、瞬く間に青に飲まれた。

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