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水とタバコ

かみさまかみさま

高名な演出家である蜷川幸雄さんが亡くなられたと聞いて、泣けるような人間でよかったなと思う。

蜷川監督の上澄みみたいな作品をすこしばかり観たきりで、知識もないしたいして熱心なファンでもないくせにめそめそと泣いてしまったのは、ああこういう人も死ぬのだな、当り前だけど、当り前に年をとるのだなという事実を改めて思い知らされたからでした。酸素を背負った車いす姿で、お誕生日のケーキのろうそくを吹き消す映像をニュースで観て、この人も人間だったんだって不思議な心地になって気がついたら泣いていた。

私自身もうけっこうないいとしなのですが、
人間が生まれてきたり死んでいったりするという現実を当り前に“そういうもの”として納得できなくて、理解はできても納得はできていなくて、さいきんはとくに、名の通った人たちがばたばたとこの世から去っていくさまを眺めて、焦燥感で茫然としてしまう。キヨシローが死んだ時もおなじようなことを考えていて、あれはもう6年くらい前にもなりますか、その時から私はちいとも変われていないんだなあと思う。山口富士夫が死んだ時も。

生きているあいだに神様になってしまった人は、死んでようやく人間になれるのだってやっと気づいた。キヨシローが死んだ時、はじめてあの人のこと「あの人も人間だったんだね」って思えた。それまでああいう人が死ぬなんて思いもしなかった。でも、死ぬんだよなあ、当り前だよ、人間だもの。

神様ってきれいなものじゃなくてね、ひどく人間くさくて泥くさく這いずりまわって苦しそうに生きてる人こそ、人間だけど、神様だと思う。存在しない偶像じゃなくって実際に生きている人そのものが神様なんだ。だからいずれは年をとって死んでくんだ。神様だけど人間だから。


そういう人たちの訃報を聞いて泣けるような人間でよかったなと思う。それはもう心底思う。
ご冥福をお祈りします。

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