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水とタバコ

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無題

創作




「あの女さぁ、」
 唇は、意思とは関係のない神経を通って動いていた。ずっとカメラの液晶を眺めていた瞳が俺に向けられ、そのまなざしのきれいさに一瞬だけ見惚れる。きれいだな、と、つくづく思う。この瞳のきれいさに、大概の女は惚れるのだ。それを一ばん近くで見てきたのは俺で、そのたびに胸の奥深くがざわついて仕方がない思いをしてきたのだ。そのことに彼が気づいているのか、いないのか、はわからないけれど、聡い彼のことだから、おそらくきっと気づいている、知っている、それが余計に、もどかしかった。
「あの女、おまえに惚れたんじゃね?」
 言った後に飲みくだした唾液はひどく苦かった。あの女――切符売り場の前で、彼に近づいて、ひと言ふた言、何かを言って、そうして去っていったあの女。どういう背恰好でどういう顔で、どういう髪型をしていたのかなんて憶えていない、そのくらい何の特徴のない女だった。それでも彼に声を掛けた時の弾んだ声音や、彼を見る目には、あきらかな好意を感じられて、気がつけば買ったばかりの切符を手のひらの中で握りしめていた。
「……どうだろうね」
 彼の声はあくまでフラットで、俺は苛立った。こいつはいつもこうだ。こちらの気も知らないで、飄々と言葉を発する。表情も、声も、平らかで歪みがない。俺は飲み会に参加したことを後悔していた。サークルの飲みなんてくだらないもの、放棄してとっとと地元に帰っておけばよかった。こいつを連れて。それでもこいつが行きたいと言うから、俺ものこのこついていってしまった。
 ムカつく。
 心の中で呟いて、浅いため息を吐き出す。ムカつく。あの女にも、こいつにも。そして苛立っているじぶんに対しても、俺はムカついていた。
 視線を窓の外に投げ、右から左へと流れていく夜を睨みつけた。窓硝子に映りこんだ俺は不細工な顔をしている。
 それにもみょうに腹が立って、それでも視線は逸らせなかった。
「どうなんだろう」
 彼はもう一度、ぽつん、と呟いた。その言葉には何の意味もないことはわかっていた。ほんとうの本気で思っていることを、言っただけだった。「どうなんだろう」。彼は心の底からそう思っている。そして、心底どうでもいいと思っている。わかっている、高校の頃からずっといっしょにいたのだから。
 彼の視線は俺の横顔に注がれていた。あまり、見ないでほしかった。ひどく不細工な顔をしているから。

 カシャン。音がして、ハッとした。彼に目をやると、ファインダー越しに俺を見ていた。いつもの、俺を撮る時とおなじポーズで、俺にレンズを向けていた。
「……何、撮ってンだよ」
 くちの中で舌を打ちながら、俺は弱々しく言った。
「おまえの横顔」
 彼は何でもないふうに言って、カメラを下ろす。無表情がにわかに崩れて、見馴れた笑顔がそこに拡がった。
「不細工な顔してる」
 彼はそう言って笑った。あまりにも屈託なく、歪みのない笑顔だった。

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